吐く血

統合失調症の女が夢を追いながら色々考えるブログ

the day

メンヘラ少女柊雪子と野次馬男子秋山楓の話

 教室の中の、窓際の一番後ろの席に座っている彼女は、決して腕を晒さない。彼女が半袖の制服を着ていた日はこれまで一度もなく、体育の授業だって、真夏の外、校庭で汗をびっしょりかきながら長袖の体操服を着ていた。
 ただの好奇心だった。
 彼女にサボり癖のあることを知っている僕は、授業開始三十秒前に彼女の席が空いているのを確認すると、誰にも悟られないよう静かに教室を出た。彼女のサボりスポットだって、僕は知っている。屋上の貯水タンクの影、ちょうど真夏の日差しを避けてくれる場所だ。彼女のサボり癖を僕が知ったのはまったくの偶然で、貯水タンクの上に登って僕がぼんやり空を眺めている時に、たまたま彼女が現れて、それが数日続き、僕は彼女のサボりスポットを知るに至ったのである。
 屋上へと向かう。移動の最中に、教師にでも見つかると厄介なので、自分の身体が他の教室の中に見えないよう、窓の下を這うようにして僕は進んだ。まるで芋虫のようで、そういえば今の国語の授業ではカフカの「変身」だったなあと思った。
 屋上の古い扉を、極力音を立てずに開ける。風が一陣吹いて、僕の髪の毛を乱していった。少し長めの僕の髪の毛を、僕は指先で払った。屋上へ進む。扉を閉めたときの音のことを考えて、扉は閉めないことにした。
 はたして、彼女はいるだろうか。好奇心と、彼女を遊びものにしている自己嫌悪との間で、僕の心がぐらぐらゆれる。
 彼女の名前は、柊雪子といった。普段は、彼女のお世話係りの雪村冬樹がそばにいるので、僕と彼女の接点などひとつもなかった。だからこそ、彼女のことを知りたいと思ったのだ。たとえば、雪村冬樹とはどんな関係なのか、とか、その手の話だってしてみたいのだ。
 梯子を静かに登って、僕は周囲を見渡した。すると、何か布切れが落ちているのが見えた。一体なんだろうか。僕はそれを拾おうと奥へと歩き出し、布に手を伸ばした。その瞬間だった。
「あっ!」
 響いた悲鳴に僕は驚いて、一度握った布をまた床へと落としてしまった。叫びの主は、予想していた通り柊雪子だった。いつもと変わらず、誰もが振り向くような美貌を持った彼女の見てくれは普段と変わらないように見せて、まったく違っていた。
 彼女は半袖だった。普段羽織っているカーディガンのせいで、彼女が夏服を一応着用していることを、僕は今まで知らなかった。いや、しかし、今はそんなことどうだっていいのだ。僕は半袖姿の柊雪子の腕を見て、茫然とした。
 ズタズタに切られた腕。古くケロイド状になって隆起した皮膚の上に、新たな切り傷が刻まれている。よく見ると彼女の足元は血に塗れていて、そういえばこの貯水タンクは雨でもないのに床が濡れていることが多いので、僕は勝手に貯水タンクが壊れているのだと思っていた。けれど真実は、彼女がこうして汚した床を洗い流していたからだった。
 僕という存在を見て、柊雪子はなにか恐ろしいものを見たような表情を浮かべた。柊冬子の右手に握られた剃刀は、赤い血で持ち手が汚れている。血の滴る剃刀を片手に、柊冬子はどうしていいかわからないといった表情を浮かべていた。そして、それは僕もおなじだった。
「どうせバラすんでしょう」
 最初に口を開いたのは柊冬子の方だった。なにも言えない僕を前に、諦念に満ちた表情で彼女は言った。
「なんて言いふらすのかしら? あの転校生は手首を自分で切ってるキチガイだって、だから近寄るなって、そう言うのかしら」
「そんなことは……」
 言いふらすつもりなんて毛頭ない。僕がそのことを彼女に伝えると、彼女はこちらを馬鹿にしたような顔をした。
「そういうこと言う奴ほど言いふらすのよ」
「僕は絶対にそういうことしない」
 僕が強い調子で言うと、彼女の肩がぴくりと揺れた。まだ手首からは血が流れ、止まる気配がない。
「とりあえず止血しよう」
 僕が言うと、彼女は突如けらけらと笑い出した。その笑い声は、僕にとって非常に恐ろしいものに感じられた。
「止血するまえに、この手と指切りげんまんしましょう。あなた、わたしのこの腕のこと、言いふらさないって。この血まみれの手と約束をしましょう」
 真っ赤に汚れた柊雪子の手が、僕の方へと伸ばされる。僕はとてつもない恐怖を覚えた。彼女の中にある狂気を垣間見たような気がした。けれど、ここで彼女の提案を拒否するわけにもいかず、僕は彼女のそばへとよると、彼女の血まみれの細い小指に自分の小指を絡めた。冷たくなった血で、自分の指が汚れるのを見た。
「指切りげんまん、嘘ついたら……小指、切り落とす。指切った」
 彼女が歌い終わった瞬間、小指に痛みが走った。彼女が剃刀で僕の小指に傷をつけたのだ。決して深くはないが、血が出るほどの怪我を負わされ、僕は狼狽した。
「興味本位でここへきた罰よ。わたしがいることを知っててここへ来たんでしょう? ねえ、秋山楓くん」
 彼女が放り投げたタオルを受け取って傷口を押さえる。「すぐに止まるわよ」と彼女は言って、自分の腕の止血を要領よくこなしていった。慣れているのだな、と僕は思った。彼女が腕に包帯を巻いて、最後に水で血に塗れた床を流すのを、僕はただぼんやりと眺めていた。
「痛みって気持ちいいでしょう。生きてるって感じがして」
 彼女がこの上なく綺麗に笑った。けれど僕は、その問いに首を縦には触れなかった。彼女の中には狂気が眠っている。僕とは違う世界で、彼女は生きている。
「住んでる世界が違うと思うなら、それ以上の詮索は無駄よ」
 柊雪子早くグレーのカーディガンに腕を通すと、ポケットの中から絆創膏を取り出した。
「すぐに止まるとは思うけど、きになるなら貼っておきなさい」
 彼女は僕の横を通り抜けて、梯子を下りた。そして、屋上から出て行った。その姿を最後まで見たわけではないが、気配で彼女がここを去ったことを僕は認識した。  抑えていたタオルをとる。確かに血は止まったようだが、僕は念のため柊雪子にもらった絆創膏を小指に貼った。それは、なんだか彼女からの呪いの印のようにも思えた。

 柊雪子は、真夏でも決してカーディガンを脱がない。その理由と引き換えに得た痛みを、僕、こと秋山楓は決して忘れないだろう。
 僕は薬指の絆創膏の上に、唇を落とした。柊冬子の抱く狂気に充てられて、自分まで狂ってしまったのかもしれない。そう思うほど、このたったひとつの傷口がなにやら大切なものに思えた。今なら手首でもなんでも切れる――そんなことを思いながら、貯水タンクの影に座り込んだ。先ほど柊雪子がいたところに座れば、彼女の体温がまだ残っていて、僕は額に薬指を当てて、必ず約束を守ることを心に決めた。彼女と僕だけの秘密を決して表に出さないことを、強く誓いを立てた。
 願わくば、彼女のことをもっと知りたい。もっと知って、リストカットなどやめろと言ってやりたかったが、今そうしようものなら剃刀で殺されかねないので、僕は言わないことにした。ただ、見守ることくらいは許されるだろう。僕は彼女を穏やかに見守ることに決めた。清々しい気分で見た空は、未だ僕の手を汚している彼女の赤黒い血と対比して、どこまでも澄んだ青色をしていた。