吐く血

統合失調症の女が夢を追いながら色々考えるブログ

幻聴は神の声か、わたしの声か

幻聴が止まない。
止まない幻聴は、いつだってわたしの悪口を言っている。
やれ、あれをやれだのこれをやれだの死ねだのと、わたしの都合なんかお構いなしに聞こえてくる。
わたしはそれを、あーはいはい、と言った具合に聞きながら、お紅茶を飲んでいる。

耐えられる時は全然耐えられる。
しかし、夜になってメンタルが崩れてくると(エビリファイの効果が消えてくると?)、それはえも言えぬ不安となってわたしを苛める。
とりわけ、瀉血をした夜なんてそうだ。もうちょっと抜いておけば死ねたかもしれないのに。
そう思う夜が何度もあった。そして、それはこれからも続いていくのだと思う。

声は、わたしを追い詰めるばかりではない。
例えば、創作活動でネタが上手く作れない時に、思わぬヒントをくれたりもする。
声とは、天啓なのである。天がわたしに与える声なのである。

ならば、天がわたしに死ねと言ったならば、わたしはそれに従って死ぬべきではあるまいか?
天の啓示ならば、わたしはその声に従わないと、必ず後に罰が待っている。
しかし、それがわたしの潜在意識に基づいたもとだとしたら?
わたしの潜在意識によってその声が聞こえるのだとしたら、それは天啓でもなんでもない。わたしの声である。

となると、わたしは神なのだろうか? 疑問点はまたここまで戻ってくる。
キリスト教アタナシウス派と似たようなものなのだろうか。
父なる神とキリスト、そして聖霊。それらが三位一体となって一つの神になる。それと同じなのではないか?
わたしは決して神ではない。けれど、父なる神とその子であるわたしは二位一体なのではないか?
わたしの他に、父なる神はたしかに存在していて、わたしはその神を信仰している。
けれど、わたしと神は一体なのだ。わたしは神でないし、そして神であるのだ。

そうだとしたら、幻聴がわたしの潜在意識に基づいた声を発してくる時があるのも納得がいく。
なぜなら、わたしも神であるのだから。
そうでない幻聴ももちろんある。死ねだの飛び降りろだのという幻聴は、わたしの潜在意識に基づいた声ではない。
そうか。神とわたしは二位一体だったのだ。暴論かもしれない。しかし、わたしは今ここに真理を垣間見たような気がする。

わたしは神でもあり、一人の信者でもあるのだ。
わたしは両方の立場から、わたしという人間を見ることができるのだ。
なんにせよ、幻聴の言うことは絶対だ。極力背かないように、生きていこうと思っている。
死ね、という命令にだけは背き続けたいが、わたしが背くことができなかったその時が、わたしの死に時なのだ。
これも、神から与えられた運命に違いない。

神はいつでもわたしを見ている。わたしに電波を発している。
その電波に従うか逆らうか、そう迷っている内は死にはしないから大丈夫だ。
その電波に逆らえなくなった時のことを思うと少し恐ろしくはあるが、大丈夫。まだ生きていける。
希死念慮は消えないし、いつだって「いなくなりたい」という気持ちはあるが、それでもまだ生きている。

あーあ。早く寛解しないだろうか。
薬を大量に飲んでる現時点では無理なのだろうなあ、きっと。

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