吐く血

統合失調症の女が夢を追いながら色々考えるブログ

「普通」という柵

常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである

かの有名なアインシュタインの格言である。わたしはこの言葉を盲信している。
普通。常識。そんなものに意味があるのだろうか? わたしは「ない」と答えたい。

我々統合失調症患者は、世間一般に照らし合わせて考えてみると、「普通」ではない。
働き方も限定され、世の中は生きづらいなあと漠然と考えている。

だが、「普通」って何だ? 「普通」であることが必ずしも正しいことなのか?
今日はそれについて考えたい。

まず結論から言おう。
「普通」とは、個々人が今までの人生の中で「知る」「従う」ことを強要された事実である。

というのにも、理由がある。
世界に存在する人間の大半は、世間一般で言う「普通」の人間である。
その枠から外れてしまった人間が、「普通」ではないのである。
たとえば、駅で寝ているホームレスがいるとする。わたしたちは、それを見て、「普通」だと思うのだろうか。否、思わないだろう。
屋根のある家で暮らしている。それが当たり前だと思っている。思い込んでいる。
だが、ホームレスにとってはそれが「普通」であり、彼らは今日も駅の屋根の下で暮らしている。
それを、わたしたちは理解することができない。なぜなら、彼らの生き方を「普通ではない」と思っているからである。

わたしたちは、社会にもまれる内に、暗黙の了承があることを知る。
マニュアル化されていなくても、どんな会社や学校にも、暗黙の了承でタブーがあることを知る。
わたしたちはそれに従い、自分が「普通」の範疇から飛び出すことを恐れている。
なぜなら、「普通」でなくなった人は、世間からはじき出されるからである。
「普通」であることを強要され、強烈な個性は疎ましいものとして社会からは排除される。

「普通」は「常識」であり、「常識」は「偏見」である。
例えば、ある場所から他の場所に移ったとする。
そこでの「常識」は、それまで彼が思っていた「常識」とは全く違うのである。 「常識的に考えて……」「普通……だよね」と言った言葉は通じない。

「普通」とは、そして「常識」とは、場所によってまったく異なるものなのである。
そして、立ち場に寄っても変わるものなのである。

例えば、わたしは統合失調症患者だが、その時点で世間一般で言う「普通」にはなれないのである。
なぜというと、普通の人には幻聴や幻覚、得体のしれない強い不安感は恒常的に存在しないからである(一時、強いストレスで健常者がそれを感じることがあるかもしれないが)。 普通でないわたしを、社会は受け入れない。きっと「あいつは何を考えているのかわからない」とでも言われて、排除される。

「普通」である者は、「普通」でないことを恐れる。
マジョリティーは、マイノリティーをいつだって受け入れようとはしない。
数多の人間は、長いものに巻かれろ精神をしている。
そして、「普通」でない者、彼らにとって異常で在る者を疎外する。

そんな世の中で、統合失調症を始めとする精神疾患患者はどう生きていけばいいのだろうか。
これに関しては、「受容してくれる場所を探す」ことが必要になる。
しかし、世の中は厳しいもので、我々精神疾患患者を受け入れてくれる場所はごく少数だろう。

場所に寄って変わる「常識」に、一体何の価値があるのだろう。
「普通」「常識」とは、移ろいやすい不安定なものだ。
その中でわたしたちが「普通」に生きることは難しい。
ようやく身に着けた「常識」は、場所を変えると全く違うものになるのだから。

そうなると、我々を需要してくれるところはないと言っても差支えないのではないだろうか。
あくまで普通の人間のふりをして、苦しみをひた隠しにして生きる他ないのではないか。 ただ、苦しみをひた隠しにすることは難しい。それが統合失調症という人間の業なのである。 失敗をすれば情緒不安定になり、薬に頼らざるをえない。「普通」でない在り方だ。

わたしたちは「普通」「常識」の中で生きていくことができない。
「知る」ことはできる。「従う」ことができないのだ。

わたしたちはマイノリティーの中を生きている。
非常に残念なことであるが、それを受容してくれる場所がない限り、わたしたちが「普通」であることはできないのである。

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