吐く血

統合失調症の女が夢を追いながら色々考えるブログ

「死にたい」という言葉の軽さ

わたしはよく「死にたい」と発言する。
寂しい時、悲しい時、気分が塞ぐ時、何の気なしに「死にたい」と口にする。
だが、実際には死ぬ気はさらさらないし、まだまだ生きて夢を叶えたいと思っている。
それなのになぜ、わたしの口からは「死にたい」という言葉が出てくるのだろう。

「死にたい」という言葉には色々な思いが込められてるんだろうと思う。
どうにもできないつらさ。苦しさ。悲しみ。
それらを包括した言葉が「死にたい」なのかもしれない。
だから、「そんなに死にたいのなら早く死ねや」と言われると困るのだ。
実際に、わたしは生きていたいからだ。

死にたくなるくらいつらい日があることは本当だ。
消えたくなるくらい悲しい日があることも事実だ。
わたしはわたしに絶望している。
父親に心配をさせ、気を病ませている自覚はある。
そんな時には、「ごめんなさい」という気持ちと「死にたい」という気持ちでいっぱいになる。

わたしももういい歳になった。
自分の感情の統制くらい自分でとれるようにならなければならない。
だが、どうしても寂しい夜がある。
日中、家に誰もいなくて悲しい思いをすることもある。
復職への恐れも拭い去れない。
いずれは働かねばならない。
健常者の中に混じって。
そのことを考えると、わたしは途端に怖くなって、瀉血に逃げる。
この先、うまくやっていける自信がない。
夢だって叶えたい。夢を叶えるまでわたしは死ねない。あと7年は生きていたい。

いまや「死にたい」という言葉はメンヘラではなくても誰でも使う言葉になっている。
「死にたい」という言葉は、軽すぎるのである。
本当に死にたい人は死にたいと発言する前にとうに死んでいるのだろう。
今日もどこかで自死を選ぶ人がいるのかと思うと、やるせない気分になる。

わたしは作家になりたい。
その強い夢があるから、今をなんとか乗り越えられている。
追いかけられる夢があってよかったと、今は思う。
「死にたい」「消えたい」「いなくなくなりたい」
漠然とそんな思いを抱えたまま、わたしは今日を生きる。

昨日今日と全然生産的なことができなかったから、明日(というか今日)は時間を無駄にしたくない。
プロットを練ろう。本を読もう。
いつ消えるかわからないこの命が存在する限り、わたしは生きていこうと思っている。

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